■三流百貨店からスタート
昭和30年、清二は28歳の若さで西武百貨店取締役店長に就任する。また同じ年に彼は「辻井喬」というペンネームで処女詩集『不確かな朝』を出版しているのも注目すべき点である。
さてその頃の西武百貨店だが、これは酷いものだった。給料が安いから社員は賄賂や横領をするのが日常茶飯事。接客も当然のように悪い田舎の3流デパートだったのだ。
当時を語るエピソードに「問屋が西武をニシタケさんと呼んでいた」というのがある。それほど知名度もなかった。また、一方で西武グループとしても、鉄道と一緒に買収しただけの百貨店であり、特に思い入れもなかった。つまり期待されてなかったのだ。
■事業拡大
しかし、清二にとって自分の居場所はここしかなかった。「ここでのし上がってやる」彼がそうした野望を抱いたのは想像に難くない。増築したいと康次郎に伝えても適わないため、彼は自ら銀行に何ヶ月も通い資金を手にし、少しづつ事業を拡大していった。
また一方で清二は、康次郎が「百貨店に大卒者はいらない。女性でいいんだ。頭のいい奴が入ったってお金をごまかすだけが関の山だ」と言い続ける中、父に絶対に分からない方法で大卒者を入社させた。
そして社内の古株を少しずつ他の西武グループや窓際に追いやっていったのである。一方でその大卒者たちの声を聞き、店内を変えていった。
そうして変革を進めていた中で一つの出来事が起こる。西武百貨店のロス出店だ。これは衆議院議員である康次郎の晩年の政策であった「日米親善」のために行われたもの。
清二を始め、専門家はみな失敗することが分かっていたが出店。そして大方の予想通り、失敗し、翌年には撤退するが、ここで約50億円の借金を抱えてしまう。
変わりつつある西武百貨店が抱えた莫大な負債。その時に選ぶ道は二つ。手堅く返すか、事業を拡大して返すかである。ここで清二は社内の反対を押し切り、事業拡大を選ぶ。
スーパー部門である「西友」は、昭和40年には3店舗だったが、45年には22店舗にまで増えている。また西武百貨店も、船橋、渋谷、大宮、静岡、八王子、また池袋パルコなどを同時期にオープンさせている。リスクを背負いながらの事業拡大が急ピッチで進んでいった。一方で清二は、詩人の青年実業家という異色の存在として注目を集め、次第にマスコミを賑わすようになっていくのもこの頃である。
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