「札幌で皿(アナログレコード)売る時は少しは質に気をつかえよ」
1998年、突如として日本のヒップホップシーンに登場した「THA BLUE HERB(ザ・ブルーハーブ)」の衝撃は、翌年にはヒップホップリスナーの耳に地鳴りのように拡がった。
90年代後半からアグレッシブに形成されてきた、日本のヒップホップシーン。その勢いは留まる所を知らないように思えた。
しかし、振り返ると1998年前後はライムスターの「リスペクト」を始めとする、ベスト的な作品が数多く発売され、それまで積み上げて来たものが消費される時期でもあった。
多くの人の耳はシーンの中心となっていた東京のラッパーに集まっていた。
そこに颯爽と登場した彼らは、東京のシーンに対し、「ひょっとして何か成し遂げたつもりじゃないだろうな」と冷や水を浴びせ、度肝を抜いた。
■決められたデビューへの方程式
ヒップホップにおけるラップは「自分を褒め、ほかをけなす」これが基本となる。
むろん東京のシーンでも、みなそうしたラップをしていた。しかし、多くのイベントで共演してきた彼らは、敵対心よりも同志としての友情の方が強く、いくらラップで「みんな雑魚だ!」と言ったところで、まるで茶番劇のようだった。
さらに90年代後半から東京の有名ラッパーは、若手を率いて「クルー」を形成した。
代表的なところでは、ジブラのアーバリアンジム(通称UBG)、ムロのキングオブディギンプロダクション(通称KODP)などが挙げられる。
ラッパーを目指す人は、有名ラッパーに弟子入りし、やがてそのラッパーのアルバムに客演で参加。それを何度か繰り返して、やっとソロデビューするという形式がいつのまにか確立されていた(もちろん例外はあるが)。
そんなスタイルを全て無視する形でブルーハーブは登場した。
■文学性を感じるボキャブラリー
彼らの最大の魅力は、リリック(詩)だった。「手垢の付いてない 自分の言葉で話す」という全く新しいアートフォームだったはずのラップにも、いつの間にかお決まりの言葉が生まれ、それの組み合わせ+個性という形で落ち着き始めていた。
だが彼らはラップというより、ポエトリーリーディングに近い、文学性の高いラップを用いた。
例えば、こんな具合だ
「生きることとは常に 永遠(とわ)につながるドアを探すようなものだ 長距離走者の孤独など人ゴトだとコトダマ導かれた頃から 呼吸することを忘れぬコトバ それをこの世に残すことこそが オレがどんな奴かってことや、存在そのものを証明するだろ?」
宮沢賢治やマヤコフスキー(ロシアの詩人)の影響を受けたという、彼の詩は東京の物とは全く質が違った。
そして多くの人が彼らに魅了された。
イルボスティーノ(以前はBOSS THE MCと名乗っていたため、一般的にはボスと呼ばれている)とDJのO.N.Oの二人で構成されるブルーハーブは、札幌を中心に活動するグループであり、レコード会社はインディーズ。事務所はボスの自宅だという。
そんな彼らも、02年に2枚目のアルバムを出し、客演も数多く行った。人気はすでに定着し、不動の地位を手にした。
だが、一方でブルーハーブのライブの評判は良くなかった。「金払って説教される」「踊ると怒られる」。なんだそりゃという感じである。明らかに面白そうではない。
結局、ずっとライブに行く気にはなれなかった。
だが、日本のヒップホップのことを文章でまとめよう。そう思い立った時、ブルーハーブの存在は急速に大きくなった。やはり彼らは日本のシーンにとって最重要グループの一つである。何はともあれ見に行こう。
そう思った。
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